まず、この正覚寺のある平野という土地は、室町時代より前から、
かなり有力な神社、杭全神社があるので、昔からかなり整備されているのか
京都のように正方形の区分が目立つ気がします。
地下鉄平野駅までタクシーで移動しようとした際、
運転手のおじさんに「できれば入口の東西南北がわかればうれしい」
と言われ、理由を聞くと「東西南北でそれぞれ町名が違ってきちゃうんですよ」
と説明をいただきました。
「(四つの町の境目なんて)言われてみれば、
なかなか珍しい土地ですよね」と運転手さん。
この辺りは大念仏寺がとくに有名とか、いろいろお話を聞きました。
タクシーに乗ってこういう話聞くのも楽しい!
タクシー慣れしてないから自分の緊張ほぐすために話しかけたんですけどね!!実際に向かっていると大きな十字の道路で区画割りされており、
なるほど、東西南北にそれぞれ地下鉄の入り口がありました。
事前に待ち合わせ場所の住所がわかってて助かった……。
私、ときたまとんでもない方向音痴やらかすんで……。
みささんと合流して正覚寺→目的の畠山政長のお墓へ。
京都のように碁盤目状に道が作られているので、
地図さえあれば割りと簡単に辿りつけます。
道の途中には「歴史の散歩道」という看板がありますし、
幼稚園にもこんな感じで看板があったり、町の歴史推しを感じる。
歩いているだけでも町の中にたくさんの寺社を見つけました。
それだけ歴史が多く残っているところなのだなぁと実感できます。
民家の連なる細い道に入り、まずは正覚寺へ。
この辺りに来ると、みささんが「お線香のにおいがする!」と。
進んでいると民家に紛れて正覚寺がありました。
お寺と言いましても一軒家くらいの大きさ。
近くには広大な正覚寺が焼け落ちた戦の事が書いてありました。
本堂二十一間四面、不動堂七間四面その他山門、廻廊、伽藍等……。
今に残るのは跡のみ、ということだそうです。
もしかすると、地図で「正覚寺」という名前のついている範囲が
お寺の広さだったのかなと思うと……すごいなぁと……。
この横には慈悲如来がありました。
お線香あげるところがあったので、みささんが早速。
そこから地図を見ながら民家の並ぶ細い道を歩いていると、
曲がり角にこっそり看板が。
ピンクの丸で囲んであるところが入口です。
入ると、幾つもの小さな社に囲まれて、畠山政長さんの墓所が。
入口は実は二つあって、あと一つの入り口は、
もろお宅の駐車場を通って入ることになるみたい。
たぶん、個人所有の土地なんでしょう。民家に囲まれてとっても狭い。
整備は行き届いておらず、大分荒れていました。
だって石枠で囲んである場所とか入れないよねぇ!
つまり、その囲まれているが室町時代から
あまり人が踏み入れていない土地だと思うと、
なんだか不思議な気分。と思いながら覗いて撮影。
枯れたお花が供えられていることから、
お参りに来る方はいらっしゃる様子。
ここが残っているのも、乃木将軍のおかげなんだなぁ。
後ろがモロにお宅の壁でちょっと申し訳ない。
そして、帰り道に私のわがままで杭全神社にいくことに。
チートイケメンの一人坂上田村麻呂が奉られている神社です。
そして、はるか昔から、この土地が神聖な場所として扱われる理由になっている、
とても有力な寺社です。
この裏には室町時代から残る本殿があったり。
室町時代からずっと残って来れたのは、細かい修復を続けてきた
いろんな人たちの思いがあっての事。
ちなみに、杭全神社、入り口のしょっぱなから
千年以上前から生きているという楠木があります。
神社とかって、その土地を守る役割があるので、
植物とかがほぼ寺社と同じ歴史を持っていると感じると、とてもありがたいなぁと。
長生きの樹にも年金を!という内容の看板と共にあった銀杏の木。
だいぶボロボロになってきて弱ってきているそうです。
そしてこれが噂の垂乳根(たらちね)です。
見事なおっぱい。
ここに来るきっかけになったみささんの新しいジャンルで、
「付喪神」は古くなったものに「憑く」から神になったのか、
それとも「九十九」生きたから神に「成った」のか、
という疑問があるそうですが、この神社に来て思ったことは、
物は「九十九」生きたから「成った」のではないのかなと思います。
人間も経験を積んで、偉大に成るものです。
どんな物にも生命を見てきた人たちはきっと、
「長生きしている」彼らを思うと尊敬せずにはおれなかったから
神と呼ぶのではないのかなぁと私は思います。
穢れの文化で、古いものを捨て続けて成長する日本の姿もあれば、
こうして長生きする物を尊敬する日本の姿もある。
なんだかいろんな事を考えながら、今も歴史を刻む土地を歩きました。
いい経験ができたなぁ。
みささん、良いきっかけをありがとうございました!